みなさんこんちは やまちゃんです。
さっそくですが、皆さんは日々の生活の中で努力をしていますか?
やまちゃんはより良く生きられるよう、何かに取り組むきっかけを探し、果敢にチャレンジするという気持ちだけは怠らないよう頑張っているつもりです。
がしかし・・・「頑張っているなぁ」っという実感がある間の行為って実は【努力】とは言わないなんて話があるんです。(-_-;)
今日は知っていそうで実は分かっていなかった努力について考えてみます。
■ 努力とは
「努力している、もしくは努力せんとしている、ということを忘れていて、そして我がなせることが、おのずからなる努力であってほしい」と日本の小説家、幸田露伴は言っています。
うーん、難解。実に難しいです( ノД`)シクシク…
つまり、真の努力というものは、「努力」という言葉を必要としない。
「あぁ、頑張っているなぁ、自分は努力しているなぁ」と感じているのであれば、既に危険信号と考えることができるのです。
努力を売りものにしてはいけないということですね。
■ 承認欲求
「努力だけは認めてほしい」誰しも一度や二度は口にしたことがありませんか?
やまちゃんも努力について考えるまでは、しょっちゅう言っていました。
「こんなに頑張っているのに認めてほしい」って(´;ω;`)ウゥゥ
でも、努力について調べていく内に「確かにそうだな」って納得できることが増え、自分の発言が恥ずかしくなることが多くなりました。
トホホ・・・( ノД`)シクシク…
言われた方も努力を認めないとは言わない、ただ、成果や結果の出ない努力を手放しで賞賛できませんよね。
やまちゃん、間違ってました。
でも、気をつけてください。世の中には圧倒的な結果を残しながらも認めてもらえない場合があります。
そんな時は声を大にして言ってやりましょう。
「バカやろー」って。(# ゚Д゚)
■ 結果のない努力
何事かを成し遂げるために努力はつきものです。
トーマス・エジソンの「~99%の発汗(努力)」、中国古典には「~駄馬だって十日続けて走れば駿馬に追いつける」と努力を高く買っている名言は多いです。
そもそも努力を貶める言葉というのは、めったに聞かれません。
一生懸命っていうのはキラキラしているものです。
しかし、しゃかりきになって努力している人が、それに見合う人生の果実を手に入れているとは言いきれません。
何の努力もしてなさそうな努力とは無縁なような人間こそ結構いい目をみているような気がします。
でも、そう考えるのはいけないことです。
世の中の不公平や人生の不条理を思うようではダメだと思います。
人が努力を高く評価する時は、結果がついてくるからです。
認めてほしいですが、残念ながら結果のでない努力は意味がないのです。
努力は量ではなく、質で考える必要があるのだと思います。
■ 二種類の努力を忘れるな
幸田露伴は「努力論」より、努力というものは、よく見れば二種類ある。
一つは「直接の努力」。
もう一つは「間接の努力」だと言いました。
直接の努力というのは、さしあたっての当面の努力で、目の前のことに全力を尽くすことだ。
間接の努力というのは、将来に向けて準備を行なう努力、基礎となる努力だ。
二種類の努力があることを忘れてはいけない。
なるほど・・・
■ 努力していると思っているうちはダメ
努力することは素晴らしいことです。
しかし、自分が努力していると思っているうちは、まだまだダメなんです。
そこにはまだ自分の中にやりたくない気持ちが残っていて、それでも無理にやっているという不自然さがあるんです。
あー、納得!!(-_-;)
自分がやっていることが自分にとって自然であると感じられるような努力をしましょう。
それこそが努力の真髄であり、醍醐味らしいです。
やまちゃんは、この域には達していませんねー( ノД`)シクシク…
■ 努力の方向を間違えてはいけない
努力したにもかかわらず、よくない結果に終わることも当然あります。
なぜそうなるのか?
それは、努力の方向が悪かったからか、そうでなければ、間接の努力をせずに、直接の努力だけをしたからだと言われています。
無理だと思えないような願望なのに、それに向かって努力してもよい結果が出ないとすれば、それは間接の努力が欠けていると考えることができます。
■ まとめ
自分なりに努力したつもりでも成果が出ない、質や量ともに充実した必死の努力が不幸にして実を結ばず空振りに終わることもあるでしょうが、それでも「努力は認めてほしい」とは言ってはいけないようです。
でも、人は弱いものです。
誰かに認められたいものだと思いますので、今回の記事に書いたように【努力】を安売りしてはいけないということだけでも知っていれば、今までの自分とバイバイすることはできるはずです。